代々木の煉瓦橋、山手線に想いが飛ぶ

前日の雪から、やや快晴になりました。

といことは、街歩きですよね。

今回は、代々木あたりをウロチョロしました

 

 

代々木の煉瓦橋

 

 

代々木駅の南側は、山手線の下を通る道が連続してます。

山手線の下をくぐると、すぐ、踏切があります。

貨物線、では無く埼京線の踏切です。

相鉄の車両が走ったり、

伊豆急下田行きの新しい車両が走っています。

撮り鉄さんがちらほら。

 

さらに渋谷側に行くと、煉瓦造りの架橋が現れました。

前後は、築堤の上を電車が走っているのですが、

一箇所、煉瓦造りの架橋があるのです。

 

築堤と架橋が見えるでしょう。

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 架橋の造りは、煉瓦の橋脚です。

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一体、何時出来たのかな、この架橋。

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こんな感じです。

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見た感じ、古くも見えるし、新しい感じもしなくはないです。

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上下で、違うみたいだし。

でも、イギリス積みということは、初期の造りかな。 

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どこにあるかというと下の場所です。

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地図からの類推

 

ということで、地図からの検証に移ります。

 

ここまで読んで頂いた方、ありがとうございました。

 ここからは、別に面白くもない話しとなります。

それでもという、変な趣味の方は引き続きお付き合いください。

 

なぜ、ずーっと築堤で造らなかったのかな。

ということで、早速、国土地理院の地図で調べてみました。

 

山手線は、区内の大動脈です。

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高低差を見ると、意外と起伏があることがわかります。 

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さて、代々木あたりの起伏ですが、

ここも台地と谷が入り組んでいます。

 

渋谷の谷から新宿に向けて登っていっているのが、

一目瞭然ですね。

 

ということで、築堤して、

緩やかに線路を上げているのが理解できます。

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では、なぜ、一部を架橋にしているのでしょう。

 

明治期の低湿地の状況です。

 

新宿御苑から原宿の方に川があります。

渋谷川ですね。

原宿では、キャットストリートとして

名残りが見られますよね。

 

薄い茶色(肌色)のところが、低湿地になります。

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 代々木あたりを拡大すると、

まさに架橋のところを低湿地が走っています。

 

といことは、昔、川だった?!

だとすると、築堤の一部を架橋にするのも理解できます。

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やっぱり、鉄道が出来た頃のものだったのかな?

などと思いが巡ります。

 

ちなみに、この下を大江戸線が通っていると思います。

そこんとこ詳しい方がコメントしていただけるかも。

 

 

山手線の原型

 

ここまでお付き合い頂きありがとうございました。

ここからは、昔の鉄道の話しになりますので、

他の面白い記事にどうぞお帰りください。

 

まだ大丈夫という稀有な方、引き続きよろしくお願いします。

 

日本で最初の鉄道は、

新橋ー横浜間というのは有名な話しですよね。

明治5年という、維新直後です。

ほんと、スゴイ早さだと思います。

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でも、明治政府は財政難。

以後の鉄道敷設は、民間が担うことになります。

と言っても、

技術者などは明治政府の役人が担っているのですが。

 

明治16年に、日本鉄道という会社が

上野ー熊谷間の営業を始めました。

 

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この当時の鉄道は、貨物が中心です。

人を運ぶという目的は、二の次だったのですね。

 

世界への窓口である、横浜港に北関東の産物を運ぶというのが、

第一の目的だったのですね。

 

ちなみに、現在の中央線も、甲武鉄道という会社が、

山梨や多摩地方の産物を運ぶのを目的としてつくられました。

 

脇道にそれました。

 

上野まで鉄道がきた!

普通なら、上野から新橋に延伸! 

ということになりますよね。

 

でも、このあたりは、人口密集地です。

土地の買い上げにもお金がかかります。

蒸気機関車の煙りも大迷惑。

 

そこで、当時は人があまり住んでいなく、

田園風景の広がる、山の手を通すことになりました。

 

品川から赤羽に鉄道が敷設されたということです。

当時は、品川線と言っていたそうです。

 

 

そして作られたのが、現在の山手線の一部です。

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開業の年に設置されたのは、

目黒駅、渋谷駅、新宿駅目白駅板橋駅、 だけ。

当初は、たったこれだけだったのですね。

すべて、街道との接点ですね。

 

でも、この山の手。

起伏が激しいというのは先に言った通りです。

 

当時は、機関車の力も弱く、

鉄道の傾斜をそんなに大きくすることは出来ませんでした。

 

そこで、

トンネルを作ったり、

築堤したり、大変だったようです。

 

現在の地図から、

山手線と赤羽線(いわゆる埼京線)の傾斜を調べてみました。

 

断面図にすると下のようになります。

私が適当に地図をなぞって作ったので、

正確性は保証出来ません。

でも、起伏が多いというということがわかりますよね。

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その後、山手線が環状運転するようになるのは、

大正14年(1925年)まで、待たなくてはなりません。

 

そして現在、運ぶものは、貨物では無く、人。

普通に山手線が環状運転していて、

乗っているのは人だけ。

 

鉄道は実は違う目的で作られ、

山手線も当初から環状運転にする前提で、

作られたものではなかったのです。

 

私たちが当たり前と思っていること。

調べて見ると違うのです。

3月14日に、

高輪ゲートウェイ駅が山手線の新駅として開業しました。

山手線について、調べてみたら面白いですよ。

 

以下の本など面白いですよ。

www.amazon.co.jp

訪問日:2020年3月15日(日)

このWebページで使用している地図は、国土地理院地理空間情報ライブラリーからの地理院地図を加工したものであ。なお、以下の承認も受けている。

この地図は国土地理院長の承認を得て、同院発行の地理院タイル(数値地図2500(土地条件))、地理院タイル(数値地図5000(土地利用))及び地理院タイル(土地利用図)を複製したものである。(承認番号 令元情複、第197号)