荒川と中川に挟まれた、水面下にある、二等三角点 「川端」

今回は、二等三角点「川端」である。

 

ここは何と標高−1.55m。水面下である。

 

それはあとでちょっと詳しく書くとして、四角柱の柱石や保護石の存在を想像して訪れると、あるはずのところには全くそのカケラも見られない。

 

地図と現地を見比べ、芝生広場の中辺りのはずだがと探すと、それはあった。

 

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まるで、1級基準点?と思ってしまう。
「基本三角点」と表面に書かれたハンドホールがそれであった。

 

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晴天の祝日の昼さがりで、子供たちが遊び、親子がフリスビーを投げている。

 

たしかにこの芝生広場に三角点の柱石やそれを囲む保護石があったら、安心して遊ぶことが出来ない。

 

設置する環境に合わせてハンドホールになったのだろう。

 

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三角点は誰にも知られることなく、もちろん、存在を主張することなく、でも、しっかりと役目を果たそうとしている。

 

ちなみに、最寄駅はセンベロの聖地、京成立石駅である。

 

周辺の地形図を見ると、荒川(放水路)の存在を大きく感じられる。

 

標高−1.55mが成立する町。

 

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高低表示 水色、青色は水面下:国土地理院地理空間情報ライブラリーからの地理院地図を加工

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周知の通り、荒川放水路は明治の末期に工事着手し、昭和の初めに完成した。

東京を水害から守る一大プロジェクトであった。

 

実際、その後の大雨を荒川放水路が無い場合のシミュレーションが行われた。

結果、北区、荒川区、足立き、墨田区台東区江東区葛飾区などは甚大な被害となっている。


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(2007年9月の台風をシミュレート)                           (1947年カサリーン台風をシミュレート)

出典:「荒川放水路変遷誌」(国土交通省荒川下流河川事務所作成)

 

明治以降、幾度となく水害に見舞われていた。

いくつかの案のうち、現在の荒川となる計画案が採用された。

大正時代に大工事がなされて、昭和5年頃に一様の完成を見た。

 

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出典:「荒川放水路変遷誌」(国土交通省荒川下流河川事務所)

 

荒川放水路の計画地は当時はまばらな人家と田畑であったという。

しかし、神社・寺院を含む多くの人家の立ち退きが行われた。

また、湾曲を繰り返す中川を分断。

さらに、東武鉄道の線路も付け替えを余儀なくされた。

さらにさらに、荒川にかかる車道橋や鉄道橋も新たに建造された。

 


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出典:「荒川放水路変遷誌」(国土交通省荒川下流河川事務所)

 

この大工事が行われていた時期、現在の北区、荒川区台東区江東区は工場が多く立地していた。 

 

全国からの人口の流入とそれによる労働力の確保の容易さ、消費地への近さなどの面で好立地であった。

のみならず、水運を使っての原材料や製品の運送のメリットがあった。

 

江戸時代は当然水運が運輸の中心であった。

 

明治にはいり鉄道が各地にでき、明治末期には相当な鉄道網が構築されていた。

 

しかしながら、この時代にでも水運の重要性に変わりなく、近代工業の発展は水運無くしては成立しなかった。

江戸時代以来の都市基盤である小名木川や竪川、大横川などの水路網は、隅田川と合わせて活躍していた。

 

この工場地帯の発展が従来の水害と異なる水害をもたらすこととなる。

つまり、住宅が被害を受ける水害から、工場などの生産設備が被害を受ける水害が発生した。

工場の生産設備の被害・更新のための資金負担、それに伴う生産力の低下。

つまり、製造業の重要な生産地帯が対象となる水害がもたらす深刻な影響が危惧され、政府に危機感を形成させたのである。

 

そして、新しい形の水害から隅田川周辺を防ぐために、比較的人口集積が少なかったエリアに荒川放水路が整備されることとなった。

 

結果、多くの街が分断された。

今回の訪問地である立石あたりは、荒川と新中川に挟まれ、中川が湾曲しながら残された奇妙な地形が形作られたのである。

 

荒川は、徳川家康の時代に埼玉県内において、今の隅田川下流を付け替えられた。

そして、明治から、大正、昭和の時代に、今度は隅田川から分離させられた。

 

その時代時代によって、人間は自分に都合良く川さえも動かしている。

 

ただ、平坦な街では無く、河川の歴史が濃く残っている街なのである。

 

国土交通省荒川下流河川事務所の「荒川放水路変遷誌」に詳しく掲載されている。

 

荒川放水路変遷誌」

http://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000704042.pdf

  

二等三角点「川端」
葛飾東立石3丁目3渋江公園内)
訪問日:2019/05/03(金)祝日