高島平を見下ろす、三角点「赤塚」

 

三等三角点「赤塚」

 

板橋区の高島平を見下ろす台地上に三等三角点「赤塚」はある。

標高は、30.40m。

高島平辺りが5mに満たない。

20m以上の高台である。

 

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三角点「赤塚」は、諏訪神社の境内にある。

立派な門を抜けると本殿がある。

 

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本殿の右脇に三角点はある。

表示杭、保護石もある、三角点のプロトタイプである。

保護石は、自然の石を利用しており、四つの石がそれぞれ特徴的である。

凄く魅力的な三角点である。


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ちなみに、諏訪神社の由来は以下の説明板があった。

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創建年代は不詳(略)、赤塚の領主千葉介自胤が、長禄年間(1457〜60)に信濃国(現長野県)の諏訪大社を勧請し、武運長久を祈願したと伝えられる。

(以下、略)

                平成6年3月  板橋区教育委員会

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高島平

 

先ほど、高島平を見下ろす台地にあると書いた。

が、残念にも崖部分の公園の高木で、高島平を見下ろすことは出来ない。

 

高島平という地名は、江戸時代末期、長崎町会の高島秋帆が西洋式の軍事演習を行なったことから名がついたと何かの本で読んだ記憶がある。

 

境内内に以下の説明板があった。

現在の高島平は、以前は「赤塚たんぼ」と呼ばれていたとのこと。

 

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江戸・東京の農業  赤塚たんぼ

この地は天保12年(1841)高嶋秋帆(タカシマシュウハン)が鉄砲や大砲を使って兵を訓練したことが有名で、高島平と呼ぶようになりました。

江戸時代、東は志村から徳丸、四葉を経て西は赤塚、新河岸あたりまでの荒川右岸一帯は台地からの湧水の多い湿地帯で、徳丸ケ原と呼ばれていました。(略)   

徳丸ケ原で大がかりな開墾が行われ、(略)米を生産する穀倉地帯となりました。かつてこの地域は大半が旧赤塚村に属していたので、農家の間では「赤塚たんぼ」とよばれ春ともなると、菜の花やれんげの咲き乱れる広々としたのどかな田園風景でした。

(略)

平成9年度JA東京グループ

農業協同組合法施行五十周年記念事業

東京あおば農業協同組合

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計画的に開発された高島平の街が、以前はのどかな田園風景が広がっていたとは、想像もできない。

 

 

 

北関東と江戸市内を結ぶ荒川

 

江戸時代から昭和初期までは水運が物流の中心であった。

江戸時代に行われた、荒川の付け替え(「荒川の西遷」)により、熊谷からの江戸市内への道が出来た。

北関東と千住を結ぶ物流の幹線として荒川が担った。

 

また、川越とは、新河岸川で繋がれていた。

一晩で川越と千住を一晩で結んでいたとのこと。

ブラタモリでもやっていたが、川越には、多くの船があった。

 

今日の新河岸川は、水をたくさん蓄え、でも、静かな水面であった。

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現在、荒川と新河岸川は平行して流れている。

しかし、大正時代の荒川放水路の整備以前は、高島平あたりでは、すでに合流していた。

 

現在の川の流れは以下のとおり。
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明治期の川の流れは以下とおり。
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川が蛇行を繰り返している。

浮間舟渡あたりなど、今の地形とは全く異なる。

 

ちなみに、江戸時代の荒川の付け替えは以下の資料をご覧いただきたい。

熊谷と鴻巣の間で付け替えが行われている。

その前は、古利根川に繋がっていた。
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(出典 「荒川放水路変遷誌」 2011年10月 国土交通省 関東地方整備局 荒川下流河川事務所)

 

蛇足

利根川は、江戸時代東京湾を河口としていた。

江戸時代に、付け替えが何度も行われ、現在の水路となった。

 

三等三角点 「赤塚」  板橋区大門11付近  諏訪神社 境内内

訪問日:2019年8月18日(日)

 

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この地図は国土地理院長の承認を得て、同院発行の地理院タイル(数値地図2500(土地条件))、地理院タイル(数値地図5000(土地利用))及び地理院タイル(土地利用図)を複製したものである。(承認番号 令元情複、第197号)