先日の台風の影響がまだ傷跡を残している。
多摩川の流域での被災が報道されている。
自然が牙を剥く脅威に対して、我々人間は色々な技術で対抗しようとしている。
人間が自然の脅威に勝るということが可能なのか、私はわからない。
ともあれ、今回の台風19号において、神田川、善福寺川や妙法寺川などにおいては被害は報道されていないように思う。
また、都内の隅田川や荒川、中川周辺も何とか持ちこたえたようである。
今回は、治水についてまとめてみた。
調節池
都内の密集市街地においては、中小の河川がある。
市街化により田や畑の氾濫原も無く、中小の河川からの越水が起きてしまう。
そこで、調節池ということとなったのではないか。
規模の大小はあるが、都内特に区部において調節池が構築される。
首都圏外郭放水路
有名なのが、「地下神殿」とも呼ばれる首都圏外郭放水路である。
中川などのいくつかの河川に危機が迫ると水を引き込み、地下約50mに約6km以上の長さの空間に一時的に貯水するものである。
中川などの5つの河川から毎秒600立方メートルの取水が可能である。
(国土交通省 江戸川河川事務所のHPより)
この首都圏外郭放水路により、城東エリアの浸水被害において効果を発揮している。
城西エリアの治水対策
首都圏外郭放水路ほどの規模ではないが、世田谷、杉並、中野、練馬区などにおいても調節池が造られ、治水に寄与している。
まずは、杉並区から中野区にかけて流れている妙正寺川である。
白鷺せせらぎ公園とその下に調節池が作られている。
さらに、中野上高田公園の下部にも調節池が作られたいる。
上は野球場となっている。
神田川・環状七号線地下調節池
環状七号線の道路下に延長4.5km、内径12.5mのトンネルを建設された。
これが、「神田川・環状七号線地下調節池」である。
神田川、善福寺川及び妙正寺川の洪水約54万立方メートルを貯留する施設である。
昭和の末から工事に着手され、平成20年に完成している。
東京都建設局により整備された。
これにより、杉並区、中野区などの神田川、善福寺川、妙正寺川などの河川流域の洪水対策として大きな役割を果たすこととなった。
また、「 白子川地下調節池事業」なども行われ、練馬区の石神井川などの洪水対策が行われている。
東京都建設局の整備計画
荒川放水路
徳川家康の江戸入府以来、荒川は変遷をはじめる。
「利根川の東遷、荒川の西遷」と呼ばれる。
灌漑による耕作地の開拓、船による物資の輸送の流通路作り、それに江戸の町を守るための洪水対策として行われた。
荒川の変遷
荒川は、家康江戸入府前には現在の大宮・浦和市の北を流れ、綾瀬川の北から東京湾に注いでいた。
これを熊谷と鴻巣の間で付け替え、隅田川に流れ込むようにした。
これにより、川越や北関東の物資の輸送に寄与するようになった。
放水路の必要性
江戸時代の江戸の治水は、主に江戸の町を守ることに主眼が置かれていたと思われる。
新吉原に向かう道筋の日本堤など。
現在の荒川区などが氾濫原として位置していた。
明治に入り、隅田川や現在の墨田区・江東区のエリアは、江戸時代に整備された水運と豊富な労働力などから、工業化が進む。
明治29年の大雨時の洪水は、現在の足立区、葛飾区、墨田区で浸水した。
工業化が進んでいた、隅田川の周辺部の水害は大きな損害をもたらすことと変化していたのである。
城東エリアの治水対策がはじまった。
放水路の経路の策定
放水路の経路について議論がなされた。
4つの案が作られた、検討の結果、現在の位置に放水路の整備が開始された。
当時、まだ市街化が進んでいなかった地域を巨大な放水路を作るのである。
放水路の開削
この荒川放水路は、10年を超える時間と多くの人を注ぎ込み造られていった。
経過は下表の通りである。
また、工事の手法も下図の通りである。
堤防を築き、水路を開削、浚渫して造っていったのである。
以下、荒川下流河川事務所のHPに掲載されている工事の様子である。
中川の東側にあった現在の平井あたりの変化の様子である。
綾瀬川や中川を横切って放水路は造られている。
江戸川区と同じように、足立区も放水路により幾つかの場所で分断された。
その後の改良
昭和5年の完成後も改良が繰り返されている。
当初の水路(黒い線)に比べて断面が広がっているのがわかる。
低水路の部分は、広く、そして、深く掘り下げられている。
また、堤防もかさ上げされている。
さらに、河川敷も低くさせられた。
断面の推移は下図の通り、一目瞭然である。
放水路の効果
結果、荒川放水路の流量は当初の倍になっている。
もし、荒川放水路が整備されていなかったら、その後の自然災害で多くの被害が出ていたのであろう。
現在の航空写真を見ると荒川放水路の巨大さが手に取るよう見えてくる。
江戸時代以降、明治、大正、昭和と東京の市街化が進のでいった。
その過程で、郊外の田園が市街地に組み込まれていった。
氾濫原として、一時的な調節池の役割を果たしていた、埼玉から足立区あたり。
舌状台地の崖地の湧水に発する、世田谷、杉並、練馬、中野区を流れる小川。
田園の小川だったのが、市街地の中を流れる細い川、そして、街に背中を向けるようにされてしまった川。
大雨時に洪水になってしまうのは当たり前である。
短時間に多量の雨が降るように、雨の振り方も変わっている。
先日の台風19号は、広い地域に災害をもたらした。
先人が造り、改良を加えてきた荒川。
台風19号にも耐えて、城東エリアを守ってくれた。
城西エリアの調節池も私たちを守ってくれた。
自然と闘うのではなく、自然と共生しての生きていく方法を真剣に考えていく時代になっている。
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