前回は復元された天守模型でした。
今回は、天守跡です。
前回も書きましたが、天守は3度建造されました。
3度目の天守の模型が作られたとのことでしたね。
1度目の天守の位置は現在とは別の場所だったようです。
3度目の天守の場所が現在の場所だったようです。
その3度目の天守も明暦の大火(1657年)で焼失しました。
その後、天守の再建が着手されました。
今残る天守台・石垣は、この再建のために作られたものなのです。
結局、天守台のみで再建は中止されました。
天守の再建よりも江戸の町の再建を優先したのですね。
私は、武道館などがある北の丸をとおり、向かいました。
北の丸との間の堀を超えて北詰橋門から入ります。
江戸城本丸の北がわの門です。
北詰橋門の脇は堀です。
下の写真の堀は乾堀。
反対側が西ノ丸です。
天皇陛下がお住まいになっているエリアですね。
左手が平川堀です。
北詰橋門です。門の先に天守台が見えます。
北詰橋門を過ぎると目前には天守台の石垣が迫ってきます。
左手に廻って、写真をパシャ。
算木積みと言われる石の積み方です。
長方体の長辺と短辺を交互にに積み上げていきます。
強い強度が得られる積み方らしいですね。
熊本地震の時の熊本城の一本足、記憶に残ってますよね。
角の石垣だけで、櫓が奇跡的に崩壊しなかったですね。
奇跡ではなく、算木積みが成したものだったのかも知れません。
その一番したの石に何か刻まれています。
どこでしょう? わかります?
これです。
几号高低標(水準点)です。
几号高低標についてはその分野に詳しい人に聞いてください。
南側から見るとこんなように見えます。
本丸跡は芝生になっています。
大奥もあったのですね。想像を膨らましてください。
天守台に登っていきましょう。
天守台の上がり、南東の角を見ています。
大手町や丸の内の高層ビル街が見えます。
江戸の時代は、大名屋敷が広がり、その先に町人の街が広がっていたのですね。
これも南東の角です。
シツコイな、と思われたでしょう。
この南東の角に三角点があるのです。
柵の外なので近寄ることは出来ません。
望遠レンズに変えて撮ってみました。
たぶん、薄い石の下にあるのでしょう。たぶんです。
あの薄い石のの下に
三等三角點 陸地測量部
って、刻まれているのでしょう。
さて地形はこんなです。
江戸城が舌状台地の上に作られているのがわかります。
西ノ丸と本丸は一段と高い。
町人が住む場所からは丘の上に将軍は住んでいたのですね。
これは本丸と二ノ丸あたりを大きくしてみました。
天守台の上に三角点があり、地図上には29.6mと載っています。
明暦の大火は、江戸の町をさらに大きくするきっかけになりました。
多くの人が江戸の町に流入し、新しい町づくりが喫緊の課題となっていました。
焼け野原になった町は、新しい町づくりがやり易いのです。
(当時の老中の一人が火元となったお寺に指示して北風の日に火を放った、との説もあるようです。事実、火元となったお寺の処分や老中とお寺のその後の関係などが書かれています。調べて見ると面白いですよ。)
寺社を郊外に移転させ、日除け地を作り、増大する人口に対応する町づくりが行われたのです。
有名な吉祥寺は、吉祥寺の門前に住んでいた人が移り住んだことで吉祥寺という地名になったとか。
ちなみに、吉祥寺は本駒込に移転されています。
両国橋が隅田川に架橋されたのも明暦の大火の後。
その両国橋を渡った先に回向院。
回向院は明暦の大火で亡くなった人を弔うために作られたのですね。
隅田川の東側(本所・深川)もどんどん市街化していきます。
両国橋詰めの広場が商いの場になったり、回向院で相撲が行われるようになったり、江戸の文化にも多大な影響を与えたのではないでしょうか。
明暦の大火の後の町づくりがその後200年続く江戸時代の江戸の町の基礎を作ったのかも知れません。
だから、その後描かれた絵にも無いはずの天守が描かれていたのかも知れません。
天守の再建よりも江戸の町の再建を優先した幕府の幕閣の判断。
保科正之だけでなく、江戸町人は感謝したのかも知れませんね。
それでは、今回はこれくらいに。
最後までお付き合い頂きありがとうございました。
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三等三角点「本丸」標高29.57m
訪問日:2020年10月