東京タワーの2回目です。
東京タワーがあった場所の昔を見ています。
下の明治20年の地図には、今の東京タワーの場所に「紅葉館」という文字が見れます。
増上寺の境内だったところですね。
調べてみると、会員制の料亭だったみたいですね。
紅葉館の建物の様子が下のサイトに載っています。
明治14年に、純和風の会員制高級料亭として開業したようです。
紅葉の装飾を施した内装や着物姿の女給さん達。
商人、政治家、文人などのサロンだったようです。
鹿鳴館が短い時間で閉じた後は、外国の要人の接待や交渉の場にもなったようです。
明治45年の地図にもしっかり載っています。
料亭の様子が描かれている絵が下のサイトに掲載されています。
芝浦沖の海まで見えたのですね。
楓などの木々や和風造りの建物、着物姿の女給さんだけで無く、景色も売りだったのでしょう。
大正3年の地図には、「紅葉山」というのも書かれています。
小山でもあったのでしょうね。
標高は愛宕山と遜色がありません。
ちなみに、この頃は、東京市芝区栄町という地名でした。
東京タワーの場所は「20号」と書かれていますね。
下の昭和2年の地図には、給水所も出来たのがわかります。
(大正3年の地図にも出てますけど。)
台地上ですから、配水のための給水所には打って付けの立地ですね。
芝給水所は、淀橋浄水場や本郷給水所とともに近代水道のはじまりとなった施設です。
本郷給水所に隣接する東京都水道歴史館について以前書きましたので、そのリンクを貼っておきますね。
神田上水や玉川上水といった江戸時代の水道の色々も面白いですよ。
良かったら覗いて見てください。
明治31年12月から給水をはじめ、以後100年にわたり東京都民の暮らしを支えてきているのですね。
給水所が改築された際、記念として一部が残されています。
給水所の上部、屋上は、サッカーコートとちょっとした公園になっています。
昔はここから海が見えたんだなと思いながら、写真を撮りました。
ちょっと戻って明治35年の絵地図です。
これまでの地図のように紅葉館や金地院や増上寺としっかりと区分されてはいなかったのではと思います。
この絵地図では一体が森のように描かれています。
増上寺の境内から、料亭になり、戦争で焼失し、戦後に電波塔として東京タワーになったのですね。
最後に高低差地図を載せておきますね。
料亭も、そして東京タワーも高台であることがわかります。
くだらない記事にお付き合いいただきありがとうございました。
それでは。
訪問日:2020年11月17日(火)
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