川端康成の『雪国』、40数年ぶりに読んだ!

久しぶりのはてなブログ

川端康成の『雪国』の話をさせてください。

SNSで『雪国』を読んだという記事をみて、読み返してみたくなりました。


一番驚いたのは、こんなに短かい作品であったかということ。
40年以上も昔になるんだなぁ、私が川端康成の作品を沢山読んでいたのは。

学生の頃は全集を大学の図書館で読んでたことも蘇ってきました。


最初読んだのは、中学生の時に。

理解出来なくて、繰り返し読んだ記憶があります。

意味が分からなくて、書かれている情景が頭に浮かばなくて。

何度も何度も、時間をかけて読んだ記憶がありました。

だから、文庫にして、200ページにも満たない作品だったことに驚き。


また、「徒労」という言葉に私は強く印象を持ったことを読んでいて思い出しました。

駒子が記す日記、幼馴染のための療養費、三味線の稽古、そして、駒子の生き方。

きっと、島村自分自身も徒労な存在。

10代だった私は、自分の将来が徒労であるのかと恐ろしく嫌になったことを思い出しました。


さらに、駒子が呟く、「悲しいわ」、「つらいわ」、「難儀なの」という言葉。

直接的には何とも言えない、自分の将来に対しての不安を覚えました。

生きることの厳しさを社会経験もない私は感じたことも思い出しました。

徒労であったり、大人の苦しさを。

でも、駒子の妖しい魅力を強く感じさせる言葉でもありました。


『雪国』のあらすじを書こうとすると、妻子持つ男の浮気の物語。

でも、そうではないです。

人間という存在の一面を表しているのです。

何より、川端康成が美を求めて彷徨しているように強く感じます。

右手の指が駒子を一番覚えていたと話す島村。

同じ川端康成の『片腕』という短編があったことを私は思い出しました。

『片腕』ももう一度読みたくなりました。

 

川端康成の文からは情景が感じられます。

でも、川端康成さんが描いた情景を、今の世界にいる私は本当に思い浮かべることが出来ないと悔しく思います。

小説に書かれた頃の「雪国」と今とでは全然違うでしょうね。

東京との距離感なども全く違っているのでしょうね。


勿論、LINEも無いです(笑)
その分、人の心と心の距離が近かったのかも知れませんね。
「1000通メールのやり取りしても君との距離は1センチメートルしか近づかなかった」
みたいに。
便利さを得ることによって、きっと、失ったことも多いのでしょう。

その失った感覚が今もあったら、川端康成氏の作品をもっと感じられることが出来るのだろうなどと思いもします。