白川郷
念願の白川郷に行って来ました。
山奥のイメージがあったが、名古屋市内から、高速道路を利用して、車で約2時間。
山奥は山奥でしたけど。
あの合掌造りの家が点在していました。
稲を刈り取って、天日干しを行なっていたり、まだ、これから稲刈りの田の風景に合掌造りが。
内部を見ることが出来るところでは、4層の家になっていた。
(窓から見える合掌造りと刈り取られ田。)
(これも、窓から見える刈り取られ、天日干しされる稲とその後ろに見える合掌造り)
(松の間から見える合掌造り)
屋内の状況は、以下のとおり。
(階段)
(これも階段からの階段)
(屋根裏の構造。暖炉の煙であめ色に色付いている。)
(屋根の構造体は、屋内では什器となっている。)
外に出ると、道路との境を野面積み?の石垣が、小川を作っている。
冬に再度来て、幻想的となる風景を見たい。
途中の御母衣ダム
地盤などの問題で、コンクリートの重力式ダムを造れず、ロックフィルダムとしたとのこと。
ロックフィルダムという初めての言葉を知った。
土などの多層構造であるらしい。
大きい。そして、ダム湖も広い。
高山の陣屋跡
江戸時代、天領だったこの地を治めた、郡代の役所、役宅、そして米蔵など。
時代劇では、悪代官を黄門様が懲らしめるという、定番であるが、
江戸時代の郡代や代官は、皆優秀だったと何かの本で読んだ記憶がある。
飛騨は、元禄5年(1692年)幕府直轄領となる。
その後、25代の代官・郡代が行政、警察、財政を執り行った。
米だけでなく、豊富な森林資源。それが目的であろう。
旗本・御家人の中から、優秀な人が送られていたような記憶が。
それと、江戸町奉行は、激務であったとのことも何かの本で読んだ記憶も思い出した。
町奉行の激務から、過労死した人が具体的な数字で示されていた。
明治になり、時の役所として使われて現存した。
(表門)
(玄関)
(役宅の居間)
(内部)
(大広間の横の畳敷の通路の外、縁側)
(大広間側から役宅側を庭を挟んで望む)
高山を流れる川。
ところどころに石階段で降りることが出来るようになっていた。
荷を船で運んでいたのだろう。
岐阜県大野郡白川村
訪問日:2019年9月22日(日)