王子神社に行ってきた!そして、8代将軍吉宗の陰謀?

 王子神社に行ってきました。

 

 

 王子神社

 

起源は、当時、豊島郡を支配していた豊島氏が
紀州熊野三社権現から王子大神を勧請して、
1322年につくられたそうです。

 

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江戸時代、3代将軍家光が社殿を新造させるくらい、
将軍家とのつながりがあったようです。


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荘厳なたたずまいですね。 

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特に、8代将軍吉宗は紀州の出であったこともあってか、

たびたび訪れていたようです。

 

さらに飛鳥山に桜を植樹しました。

そして、飛鳥山王子神社は名所として江戸市民の憩いの場として栄えたとのこと。


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唐破風もいい感じです。
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 狛犬です。

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場所は?地形は?

 

ここまで読んでいただきありがとうございました。

これからはまた、地形の話しです。

面白く無いですよ。

それでもお付き合い頂ける方はもう暫くお願いします。

 

神社の場所は、JR京浜東北線王子駅の直ぐ近くです。

ちょうど、石神井川の上に王子駅があるような感じです。

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京浜東北線は、上野駅から台地の裾に沿って走ってます。

王子神社は、台地の縁に建っています。

江戸時代には、遠くまで見通すことが出来たのでしょうね。

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広い範囲で見ると、こんな感じです。 

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ちなみに、石神井川が王子では音無川と呼ばれています。

これは、紀州の地名に擬したとの説もあるようです。

 

 

8代将軍吉宗は、陰謀家?!

 

ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
これからは、歴史の話しになりますので、さらに楽しくも無い話しになります。
それでもいいよ、と言って頂ける方はもう少しお付き合いください。
 
紀州藩2代藩主の徳川光忠の四男として生まれました。
家康の曾孫にあたるのですね。
四男(次男は早世しているので3男と言われこともあります。)がなぜ、紀州藩主になって、さらに将軍にまでなったのか。
 
歴史的経緯は、以下の通りです。
1697年、14歳で5代将軍綱吉にお目見えします。
そこで、越前丹生郡3万石を賜ります。
葛野藩の藩主として大名になりました。
これでその後、終わるのが普通だと思うのですが。
 
1698年に長男の綱教が父光忠から家督を譲られます。
長男綱教が紀州藩の藩主となります。
綱教は、紀州藩の財政が苦しい状況であったことから建て直しに奔走するのです。
 
しかし、1705年、長兄の綱教が30歳代の若さで急逝していまいます。
そして、三男(吉宗の兄)頼職が家督を継ぐのです。
が、父の光忠が死に、頼職まで、半年の間に死んでしまいました。
結果、吉宗が紀州藩の藩主となるわけです。
 
何か不思議だと思いませんか。
1年の間に3人も死んで自分に御三家の紀州藩家督が廻って来たのですよ。
疫病が流行っていたわけでも無いのです。
 
ここからは、私の想像です。
綱教が死んだのは、医療レベルが低い時代ですから、
やむを得なかったかも知れません。
 
でも、短い間に次の兄まで?
 
これは、押込では無かったのかな、と思ったりします。
家臣が、火の車の紀州藩を建て直すことができるのが吉宗だと思ったとしたら。
当時の一般的な押込は、いわゆる隠居させるのですが、
非常手段に出たのではないでしょうか。
 
そうです。
長兄の死をきっかけに
次に藩主になった次兄頼職を暗殺したのではと。
その歯止め役の父まで暗殺したのではないかと。
それは、吉宗がやったのか家臣がやったのか?
どちらも可能性は無くは無いでしょう?
 
と思ってしまうのです。
 
 

 主君押込

 
 

いやいや、本当、ここまでお付き合いいただいた稀有な方がいらっしゃったら、本当にありがとうございました。

さらに、さらに、つまらない話しをしてしまいます。

これ以上お付き合いされるとしたら、奇跡の人です。

 

「押込」というのは何かといいいますと、以下のようなものです。

品行が悪い主君に家老らによって行いを改めるよう、注進が行われる。

注進が何度か行われそれでも藩主の行いが改まらない。その場合、家老ら重臣が集まって協議が行われる。

そこで押込も止むを得ないとの結論に至った場合、実行されるのです。

 

主君は家臣にとって必ずしも絶対的な存在ではなかったのです。
主君と家臣団は相互に依存・協力しあう関係です。
現在でいうと、会社みたいなものです社長が浪費したり、私利私欲で行動したらダメですよね。
そこで「お家」を守るために「押込」が行われるのです。
 
品行が悪いとか、主人としての能力が著しく低いとか。
そんなお殿様だったらということです。
会社が倒産して社員は失業してしまう。
同じことが江戸時代の藩だと思えばわかりやすいと思います。
 
家臣が合議による決定により、
強制的に監禁(いわゆる「押込」)をして、
代表者=殿様を変えてしまうのです。
 
押込については、
笠谷和比古著「主君「押込」の構造」
という本に書いてあります。
なかなか、面白いですよ。
 

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2020年3月24日 

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