今回は、三角点ではなく、「橋」です。
土木学会という団体があります。
歴史的に価値がある土木遺産を「土木学会選奨土木遺産」としてしています。
そして、その歴史的価値を広め、保存に資することを目的としているんですね。
東京にも幾つか指定されている土木遺産があります。
私の興味は、台地や河川とか道路絡みが中心です。
いわゆる地形。
となると、三角点だけでなく、当然「橋」も気になる存在です。
という事で、葛飾区と埼玉県三郷市の境にある、「閘門橋」に行って来ました!
コウモン橋です!
どこにあるの
西日暮里から千代田線に乗って、金町駅で降ります。
金町駅の南口の駅前広場からバスが出てます。
が、私は歩きでしょう。
位置関係は、下の地図を見てくださいね。
このあたりは、中川と江戸川に挟まれたエリアです。
そう、当然、山なども無く、標高も5mを超えるところは無いようです。
標高を5m、10m、20mと刻み、高低差地図を作ってみましたが、やっぱりという感じです。
下のオヤコフンさんの記事も参考にしてください。
閘門橋
閘門橋は、広い広い水元公園の西の端にあります。
橋だけに。
大場川が中川に流れ込むところにあったのです。
土木学会選奨理由は、明治期に建造され、現存する貴重なレンガアーチ橋であると。
実際見て見ると、素敵!という想いです。
まずは、水元公園を抜けて来た私の見た最初がこれ。
晴天の下、水面に映る周りの木々とレンガ造りの橋。
いい感じです!
さらに近づいていくと。
まず、中央部から左手と右手で区分しましょう。
左手は、東側から見ると3連のアーチです。
でも、西側から見ると5連のアーチとなっています。
なかなか複雑な構造でしょう。
これに気付いたのは、実際、橋を渡った後。
西側から見るとこんな感じです。
(西側の南方向から)
(西側の北方向から)
分かりますか?
中央の大きなアーチの脇に小さなアーチが2つずつ。
合計5つのアーチになっているでしょう。
私の頭の中が???って感じになりました。
それでは、東側からもう一度見てみましょう。
(東側の北方向から)
(東側の北方向から)
つまり、東側の3つのアーチの両側の2つアーツが、西側に出る時に1つのアーチを2つにしてるってことです。
複雑な構造でしょう!
さらに橋の中央部に半円形のテラスもあります。
それも両側に。
凝っている。
欄干もよく見てください。
木のような、枝の先のような、葉の葉脈?
何を模したのか私にはわかりません。
そして、中央のテラスの北側にも1つのアーチがあります。
ということで、足を運んではわざわざ見行く価値のある、魅力的な橋でした。
現在は、歩行者しか通る事は出来ません。
自動車などは、直ぐ隣り、別の橋を通ります。
(橋の南方向から)
(これも橋の南方向から)
なぜ、閘門が必要だった?
閘門橋の脇に説明板がありました。
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閘門橋(明治42年完成)
閘門橋は、レンガ造アーチ橋としては、東京に現存する唯一の貴重な橋です。
橋名の閘門というのは、水位・水流・水量等の調節用の堰のことをいいます。
江戸時代(宝永年間)この辺りは、古利根川(現在・中川)、小合川(こあいがわ:現在の大場川、小合溜)が入り込んだ、複雑な地形を有しており古利根川の氾濫地域でありました。この古利根川の逆流を防ぎ、水田の水源確保のため、さらに岩槻街道の流通路として閘門と橋が造られたと言われております。
現在の橋は、明治42年、弐郷半領用悪水路普通水利組合によって「弐郷半領猿又閘門」としてレンガ造アーチ橋が造られました。
その後、本橋は新大場川水門の完成により閘門としての役割を終え、また隣接する葛三橋(かつみばし)に車道を譲り、歩行者・自転車道に移り変わりました。
この改修に当たって、レンガのアーチ部分は原形のままとし、橋面上の修景にとどめました。アーチの橋脚部のブロンズ像は、荒れ狂う風雨と必死に闘いながら閘門の堰板を巻き込んでいる姿です。
閘門橋は、こうした人々の水との生活史を今に伝えるものです。
平成2年3月 東京都
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このあたりは、中川と江戸川に挟まれた低湿地だったわけですね。
その中川からの逆流を防いだり、水田の水の確保のために閘門が造られたのですね。
川の位置関係を整理すると、こんな感じですかね。
閘門橋あたりを拡大するとこんな感じです。
閘門橋が建造された頃は、「弐郷半領用水閘門」と言ったそうです。
弐郷半領用水について調べて見ると、こんな情報がありました。
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16世紀後半には、この地方の50戸以上の集落の吉川郷・彦成郷の二郷とその南の50戸に満たない半郷を合わせて「二郷半領」と呼ぶようになり、吉川の古名として現在に伝えられています。
(埼玉県吉川市のHPより)
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二郷半領用水路は、埼玉県南東部に位置する松伏町金杉を 起点して南下し、中川と並行して吉川市を流れ、三郷市戸 ケ崎で第二大場川に合流する用水路です。 歴史は古く、寛永年間に開削された用水路で、明治後期に 江戸川より取水していました。その後、江戸川の河床低下 や施設の老朽化に伴い、幾多のかんがい排水事業による水 路整備を行いました。 現在は、葛西用水路土地改良区が管理する用水路となり、 利根大堰から利根川の水を引き込み、埼玉用水路、葛西用 水路を経由し一旦大落古利根川に流れたのち、松伏町にあ る二郷半領揚水機場から取水し、水田へ用水を供給してい る重要な用水路となります。 【用水路延長:16.7km、受益面積:約1800ha】
(埼玉県の「川の国埼玉はつらつプロジェクト」のHPより、作成は吉川市)
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埼玉県の吉川市、三郷市などを江戸時代に水田地帯にするために先人が取組んできたんですね。
川の変遷
それでは、川の流れがどう変わってきたかを見てみましょう。
変わってきたとではなく、先人が変えてきたのですね。
昭和初期の航空写真では、まだ、大場川が中川に合流する地点に閘門橋があることがわかります。
中川は、クネクネからクネになりました。
さらに、下流は新中川が開削されています。
荒川(放水路)も造られ、中川が寸断されました。
江戸川も放水路が出来て、今では元の川を旧江戸川と言うようになりました。
ちなみに明治期の低湿地の様子はこんなです。
いつも、どこに行っても、その土地土地には、先人たちの苦労と努力があります。
先人たちが幾時代に渡って生きてきた跡が、地層のように積み重なっているんですね。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
つまらない、自分の趣味嗜好を自分自身の記憶に留めるようなものにお付き合いさせているとしたら、申し訳ありません。
それでは、良いお年を!
このWebページで使用している地図は、国土地理院の地理空間情報ライブラリーからの地理院地図を加工したものであ。なお、以下の承認も受けている。
この地図は国土地理院長の承認を得て、同院発行の地理院タイル(数値地図2500(土地条件))、地理院タイル(数値地図5000(土地利用))及び地理院タイル(土地利用図)を複製したものである。(承認番号 令元情複、第197号)
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