今日のブラタモリ「東京湾」に関連して、2019年6月に巡ったお台場を再掲します!
今回は、お台場にある、三等三角点「第三台場」
お台場、それは港区の臨海部、人工的に造られた街。フジテレビがあるところ。
そもそも、「台場」って?
実は、ここの「お台場」以外に、ペリーの来航(1853年)以前に多くの台場が造られていた。
アヘン戦争(1840〜1842年)で大清国(中国)がイギリスに簡単に敗れてしまう。
海外の情勢を把握していた幕府は、彦根藩、会津藩などに命じ、1847年以降、いくつもの台場を三浦半島や房総半島に構築する。
江戸湾(東京湾)の入り口、千葉県の房総半島側、富津。神奈川県の三浦半島の久里浜や三崎などに。
その防衛拠点として、浦賀奉行所の体制も増員していた。
ペリーの来航前のことである。
じゃあ、「お台場」は、いつ? どうやって?
品川においては、ペリーの来航後、様式の海上砲台を急ぎ造ることになる。
当初は、江戸湾の入り口を封鎖するため、富津から横須賀の海上に9基の海上砲台(台場)を構築することが検討された。
が、しかし、経費が膨大になることから、品川沖に集中して台場を造ることとなった。
9基の台場を造る予定であったが、完成したのは7基。
品川の海岸線に品川台場、そして、第一台場から第六台場の海上砲台。計7基。
台場の位置や海岸線をこの辺りということで、現在の地形図に書き入れてみた。
翌年のペリー再来航までの間、8ヶ月で造った。
ペリーは、前年に来た時の景色との相違に驚いたことだろう。
ちなみに、ペリーに押されて日米和親条約を締結したと思いがちである。
が、内容は幕臣が巧みに上手く進め、ペリーは要望の全てを果たすことはできなかった。
ペリーは、日本が欧米の技術を習得すると世界に覇を称える国の一つなると後に記していたと何かで読んだ記憶がある。
「台場」はどこの土を?
台場は、正方形や五角形など様々。石垣で周りを囲む。
この台場を造るのに使われた土は、御殿山、八ツ山の土が使われた。
現在の住居表示でいうと、港区高輪4丁目、品川区北品川3丁目、4丁目、6丁目辺りとのことらしい。
現代の地図を見るとここあたりが土を取られたところだなと想像が着く場所が見られる。
「台場」は2つしか残ってない
品川台場は現在台場小学校となっている。
第一、第二、第四、第五台場は、現在埋め立てられたり、撤去されたという。
第一、第四、第五台場は、埋め立て地の中にあることから、痕跡を探してはいるが場所伺う痕跡を私は見つけられない。
(現在のお台場)
(2007年頃) (1979~1983年頃)
(1974~1978年頃) (1961~1969年頃)
(1945~1950年頃) (1936年頃)
現存するのは、史跡に指定された、第三、第六台場のみである。
このうち、第三台場は、私たちが普通に言っている「お台場」にあり、陸続きで誰もが足を踏み入れることが出来る。
そろそろ、訪問記を
砂浜の先に見えるのが第三台場である。
第三台場の手間のビーチも一時期は、船を係留したり修理する場所であったらしい。
いよいよ、第三台場に足を踏み入れる。
第三台場への階段を登って行くと、直ぐに芝生の中に三角点の標石が見つけられる。
北西に向かって写真を取るとレインボーブリッジの台場側が入り込む。
東側に目を向けるとフジテレビ、北東にはタワーマンション群が。
台場の中は、昔の砲台としての陣屋を置いた空間がある。
幕末期に防衛のために造られた遺構が、現在は、新しい街の中の憩いの場となっている。
歴史の流れが「お台場」という言葉自体のイメージまで変化させた。
三等三角点「第三台場」
東京都港区台場1丁目10付近
訪問日:2019/06/01
台場の痕跡を探しに、品川埠頭を再訪。
やはり痕跡は見つけられなかった。
せめて、品川台場食堂から「お台場」方面の写真を撮りたいと思ったが、日曜日はお休み。
あきらめ、品川台場の跡である、台場小学校へ。
第二台場に造られた灯台を模している。
台場の外周部が道路として残っている。
五角形の台場だったことがわかる。
小学校の西側と南側は、細い路地となっていた。
訪問日:2019.6.16(日)
このWebページで使用している地図は、国土地理院の地理空間情報ライブラリーからの地理院地図を加工したものであ。なお、以下の承認も受けている。
どくしゃ