水戸黄門の影響なのか、江戸時代の代官や奉行と言えば私服を肥やすイメージですよね。
でも、実態は違ったようです。
というのは、旅人サイファさまの記事で、
です。
traveler-cipher.hatenablog.com
ペリーの来航の地、横須賀造船所など、三浦半島は幕末の動乱期には大きな存在感を示していますよね。
私は幕末の幕臣にもう少し陽が当たってもいいのにとコメントしました。
すると、旅人サイファさまは、
「江川太郎左衛門英龍!」
と名前を挙げてきたのです。
嬉しい限りです。
ちなみに、私は、
小栗上野介忠順
ですが。
江川太郎左衛門英龍や小栗上野介忠順を知らないという方、ぜひ調べてください。
幕末の幕臣には、先見の明を持った人が多くいます。
また、その後の明治維新の礎となるようなことを遺した人が多くいます。
彼らは、単に徳川宗家のためだけでなく、日本の将来を見ていたのです。
そこを書き始めると止まらなくなりますので、今日は辞めときます。
前置きが長くなってしまいました。
江戸時代、奉行や代官が全国に置かれました。
奉行と言えば、江戸の北と南の町奉行ですね。
それと、大坂、長崎などの重要な都市や特別な職務のため遠国奉行が置かれました。
江戸の町奉行については、いろいろと本が出版されていますので読んでみると面白いですよ。
100万人都市の江戸の行政を2人の奉行と、南北奉行所それぞれに、与力25人、同心100人では無理でしょう。
ちなみ、上の南和男著『江戸の町奉行』(2005年、吉川弘文館)によると、
町奉行在職中の死亡16人
数年内死亡10人
と、町奉行になると、在職中とその後数年で3割の人が死んでいるのです。
今で言う、過労死です!
町奉行!
激務だったようですね!!
確か小栗上野介忠順の父も新潟奉行在職中に亡くなっていますね。
奉行とは別に幕府直轄地には、代官が置かれました。
代官の業務は、
①年貢の徴収
②警察、裁判
が主だったようです。
江戸時代の初期を除き、旗本などの幕臣が大体赴任していました。
地方行政官ですね。
代官が執務を行なっていた建物が陣屋ですね。
(高山陣屋跡)
代官も激務だったのでしょう。
10万石くらいの天領の年貢徴収業務だけでも大変なのに、警察行政も裁判もやるのですよ。
今で言うと、県知事と警察と消防、地方裁判所・簡易裁判所、家庭裁判所の長を全部やるようなものですね。
それも官吏は数人だったようです。
また、職務怠慢が発覚すると罷免されたようです。
百姓一揆や飢饉で多くの餓死者を出すなど、代官としては失格だったのですね。
ですから、ドラマの水戸黄門のような私利私欲で動くような代官は少なかったようですよ。
それよりも、飢饉の際は私費を投じて救済や復興に取り組んだ代官もいるようです。
ということで、今回は旅人サイファさまの記事から代官についてダラダラと書きました。
最後までお付き合い頂きありがとうございました。
2020年12月27日(日)