人口が増え続ける足立区

足立区にある三角点

 

今回は足立区にある、三等三角点の「舎人」と「西新井」。

2つの位置は、下図の通りである。

舎人は、足立区の西北、埼玉県との県境に近い。

西新井は、足立区では、中央のやや西側に位置している。 

河川と県境にちょっと注目してもらいたい。

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三等三角点「舎人」

 

三等三角点「舎人」は、足立区が埼玉県に食い込んだところにある。

所在は、足立区入谷9丁目13付近である。

道路の歩道上にあり、標高は、4.13m。

このエリアは、首都高川口線の西側の工場や住宅などが混在するエリアである。 

 

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 歩道上にある三角点。マンホールの中に標石がある。

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マンホールの隙間から標石を見ることが出来る。
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標石の十字が黄色く色付けされている。
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昔はどんなだった

 

国土地理院のHPから、このエリアの変化を航空写真で調べてみた。 

 

1945頃は、建物は少ないことがはっきりとみて取れる。

また、河川とその周りには田畑が広がっているようである。 

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1960年代となると、道路の整備が進んで来ている。
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1970年代になると河川の整備が進み、河川の周りの田畑だったところが、建物が建っていっている。
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1980年前後においては、急速に建物が増えていることが手に取るようにわかる。
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1980年代後半には、高速道路の建設なども行われており、さらなる都市化の進行が進んでいる。
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そして現代の状況。

公園なども作られ、空き地もほとんど無くなり、市街化もほぼ終わったような状態になった。
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三等三角点「西新井」

 

三等三角点「西新井」は、環七の北側、そして日暮里・舎人ライナーの東側の西新井4丁目13にある高道西公園の敷地内にある。

こちらは、標高2.36mである。

足立区全体が昔の河川とその後背地のエリアであることから、概して標高が低く、台地なども無い。

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公園の南西の芝生?の中にマンホール型の三角点である。
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一見、ただのマンホール。
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近づいて、マンホールの上の土などを払って観察した。

上部には水準点との表記もあり、水準点との共用であろう。
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昔の姿は

 

このエリアについても国土地理院の航空写真から、地域の変化を調べて見た。

 

まずは、l1940年代の後半(戦後の混乱期)の状況である。 

このエリアは、王子からも近く、新井大師も近いことからか、比較的、住宅街であったことがわかる。

交通の要所、千住にも近いと言えなくもない。

また、昔の川の位置が現在と違うところにある。

不自然なように思えるところに埼玉県と東京都の境があるが、昔の川の名残りかも知れない。

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1960年代には、河川の改修が進んでいることがうかがえる。

また、いくつか碁盤の目のように区画されたところも現れて、宅地開発が行われている様子も見える。
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1970年代には、団地がいくつも出来て来ていることが見て取れる。

足立区の人口が急激な増加をしていく最中の頃と符合する。
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1980年前後においては、このエリアではほぼ全域で宅地化が進み、田畑などのような場所は無くっている。

この頃には、急激な人口の増加終わりを告げている。
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1980年代後半は、首都高速道の建設が行われているくらいで、ほぼ、現在と同じ状況となって来ている。
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足立区の都市化

 

東京都区部の都市化の流れについてこれまでもいくつか書いてきた。

江戸時代あるいは明治までの市街地であったのは、旧15区のエリアと思えばいいのではないか。

明治から昭和7年(1932年)まではの東京市は、現在の千代田区中央区、港区、文京区、台東区、新宿区の一部、墨田区の一部、江東区の一部で構成されて、15の区となっていた。

このエリアが東京への人口の流入関東大震災による被災、鉄道網の整備などの要因で郊外部に移動が起きた(と思う)。

台東区の人口推移を見ると大正9年には約45万人であったのが、以降の増加はあまり無い。

それとは対照的に、郊外であった大田区、杉並区は大正9年から20年間に爆発的に増加している。

ちなみに、郊外エリアは昭和7年に東京市に組み込まれ、35区体制になったている。

 

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さて、足立区はどうか。

大正9年には10万人に満たなかったが、20年後の昭和15年は25万人ほどにやはり急増している。

 

しかし、増加の程度で言うと、杉並区、大田区ほどの伸びは見られない。

逆に大田区、杉並区が昭和40年(1965年)あたりで人口の増加が止まっているのに対して、昭和50年(1975年)あたりまで増加が続いている。

つまり、大田区、杉並区などの旧東京市の西、南エリアの都市化が先行して、足立区の都市化は少し遅れて進んでいたことが国勢調査の結果からも確認ができるということである。

 

なお、江戸川区においては、平成に入っても継続して人口の増加は進んでいる。

 

現在の東京23区は、どこも都市化が進んでいる。

しかし、街、街で、戸建て住宅中心の街であったり、マンションが多くある街であったり、色々である。

街の顔、香りがそれぞれにある。

それは、宅地化された時代時代を反映されたものなのだろう。

街歩きの楽しみの一つとして、その街の歴史を想うのも素敵である。

 

 

三等三角点「舎人」  足立区入谷9丁目13付近  道路上

三等三角点「西新井」 足立区西新井4丁目13  高道西公園内

訪問日:2019年9月15日(日)

 

このWebページで使用している地図は、国土地理院地理空間情報ライブラリーからの地理院地図を加工したものであ。なお、以下の承認も受けている。

この地図は国土地理院長の承認を得て、同院発行の地理院タイル(数値地図2500(土地条件))、地理院タイル(数値地図5000(土地利用))及び地理院タイル(土地利用図)を複製したものである。(承認番号 令元情複、第197号)

 

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