江戸城復元! その1

江戸城の復元模型が作られ、公開されている、

とのニュースが流れました。

 

早速、江戸城に行ってみました。

皇居東御苑内の本丸跡地の脇に復元模型のための建物が作られていました。

その中にありました。

 

ちなみに天守は3度建てられました。

復元模型は、徳川家光の3度目の天守

何故かと言うと、資料が残っていたからです。

 

こちらの本にも細かな図が掲載されていました。

(学術的過ぎて、あまり、、、、)

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前置きはこれくらいにして、模型はこれです。

実物大の30分の1の大きさです。

私の背丈より高く、2mほどです。

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石垣の天守台から作られています。

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江戸時代の町人はこのような天守を見上げていたのですね。 

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よく見ると、実に詳細に作られています。

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破風なども実に細かい作りです。

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江戸城は、実はそれまでの城と比較にならない程の大きさだったのです。

 模型の説明の中に以下の説明図がありました。

 

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姫路城などと比べても如何に大きいか、ご理解いただけるでしょう。

 

さらに、江戸城は台地の上に作られています。

江戸と言われたところで一番高い愛宕山がの標高は25m。

(人工的な築山は戸山ですが)

 天守台の石垣の上部は、標高30m。

愛宕山にも江戸城天守台に三角点点があり、標高がわかります。)

天守の高さは、標高80m近くになります。

それを江戸町人は見上げていたのです。

 

でも、この江戸城も1657年の明暦の大火で焼失します。

そして、その後天守は作られることはありませんでした。

保科正之をはじめとする幕閣は天守の再建しなかったのです。

戦乱が終わり、徳川の世が安定してきました。

武力による統治から文治に変わっていたのです。

葛飾北斎が描いた絵の天守は町人の心の中の江戸城天守だったのです。

 

ということで、今日はここまでです。

 

「あれ、三角点も地形図も無いの?」

と思っている方がいるかも。

そう思って頂ける方がいたら光栄です。

 

そう思う人がいなくても、三角点と地形について書こうと思います。

それは、次回以降にということで、今日はここまでです。

 

最後までお付き合いいただきありがとうございます。

 

訪問日:2020年10月4日(日)